天明3年7月、浅間山が大噴火を起こし、鎌原村は火砕流にのまれて、500人近くの村人が亡くなりました
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5.五月十二日
2007年10月24日(水) 12:12
5.五月十二日




 四月九日の浅間焼けから一月が過ぎた。

 浅間山はすっかり落ち着いて、いつものように三筋の煙を上げている。山守(ヤマモリ)の爺さんの心配は取り越し苦労に終わったようだ。

 五月に入ると、いよいよ芝居の稽古も本格的になり、立ち稽古が始まった。去年、『義経千本桜』の序幕と二幕目を演じ、今年は三幕目と四幕目。三幕目の『渡海屋(トカイヤ)の場』『大物浦(ダイモツウラ)の場』には、市太が演じる『いがみの権太』の出番はない。四幕目の『下市村(シモイチムラ)の場』になって、ようやく出番が来る。そして、来年やる予定の五幕目『鮨屋(スシヤ)の場』では『いがみの権太』は主役だった。

 勘治の役、下女のおとくは三幕目に登場し、惣八の駕籠(カゴ)かきは四幕目に登場する。二人とも市太の役に比べれば随分と楽な役。それでも、今年の演技次第で、来年はいい役が貰えるかもしれないと張り切っている。市太にしても今年、うまく演じなければ、来年も権太をやれるとは限らない。仕事を終えて、皆が集まって来る前から稽古に余念がなかった。

 今日は芝居の稽古も休み。市太と勘治、おなつ、おなべ、おゆうはおゆくの茶屋『桔梗屋』に集まって、夕方から酒を飲んでいる。惣八は一昨日、家の金を持ち出したのがばれて、家から出して貰えない。勿論、その金は市太らと追分宿で遊んでしまった。

 おなつたちが雪之助から義太夫(ギダユウ)を習い始めて早一月が経ち、三味線を持つ手も様になって来た。初めの頃はあの時、雪之助を聞いたおなつたち三人とおゆく、市太の妹のおさや、枡屋(マスヤ)の娘のおみやだけだったのが、今では村の娘たちがこぞって習っている。三味線のある者は畑仕事の合間にも弾き語り、ない者は口三味線でやっている。朝から晩まで三味線の音が鳴り響き、花街にいるような賑やかさ。しかも、皆、同じ義太夫を唸っている。どこに行っても、お染がどうした、久松がどうしたとやかましい。

 雪之助は娘たちに教えるだけでなく、毎晩、どこかに呼ばれて義太夫を披露している。夏の土用が来るまで草津もそれ程忙しくはないので、それまで、ここで稼ごうと腰を落ち着けてしまった。

「おい、勘治、雪之助に夜這(ヨベ)えをかけた野郎はいねえのか」

 突然、市太に聞かれ、勘治はむせて酒を吹き出した。

「もう、汚いわねえ」とおゆうが勘治が肩から下げている手拭(テヌグイ)をつかむと汚れた所を拭く。

「おい、そいつを使うな。大事(デエジ)な手拭なんだ」

 勘治はおゆうから手拭を引ったくる。

「なに言ってるのよ。自分が汚したくせに」

「まったく、もう」と勘治は手拭の汚れを気にしている。

「おい、おめえ、むせるとこをみると、てめえで夜這えをかけやがったな」市太が笑いながら聞く。

「とんでもねえ。俺アそんな事アしねえ」と勘治は首を振るが、

「あんた、お師匠とやったのね」とおゆうが鬼のような顔して睨(ニラ)む。

「なに言ってんだよ、違うって。まあ、やろうたア思ったがな、見事に失敗(シッペエ)した。ありゃア並な女じゃねえ」

「この馬鹿。いい女を見りゃア、すぐやりたがるんだから」

 おゆうは勘治の手拭をつかむと土間に思い切り投げ捨てる。

「おい、何するんだよ。おめえ、許さねえぞ」

 勘治がおゆうを殴ろうとするのをみんなで止めに入る。痴話(チワ)喧嘩はいつもの事なので、誰も気にしない。二人が落ち着くと市太は勘治に聞く。

「それで、おめえ、どうして失敗したんでえ」

「それが、そおっと布団ん中に入(ヘエ)ろうとしたら、どすのきいた声で、『命を張って来たんだろうね』って言うんだ。その手に尖(トガ)った簪(カンザシ)が握られてて、思わず寒気立って、スタコラ逃げて来たんさ。あん時の顔は、ほんと恐ろしかった。殺されるかと思ったぜ」

「ほう、簪を構えたのか」と市太は驚く。「まあ、女一人で旅するぐれえだからな。身を守るすべは知ってるに違えねえ」

「もしかしたら、江戸で人を殺して逃げて来たんかもしれねえ」

「お師匠はそんな人じゃないよ」とおなつは否定する。

「そうよ、そうよ。おまえが間抜けなんだ」と娘たちは口を揃える。

「あたしもその事、聞いたのよ」と煮物を持って来たおゆくが言った。

「女一人で旅するなんて危険じゃないのって聞いたのよ。そしたら、隙(スキ)を見せなきゃ大丈夫だって。確かにそうかもしれないけど、雲助(クモスケ)大勢に襲われたらどうするのって聞いてみたの。そしたら、取って置きの啖呵(タンカ)をきるんだってさ」

「何でえ、取って置きの啖呵ってえのは」

「そこまでは教えてくれなかったけど、あの人、数々の修羅場(シュラバ)をくぐって来たのかもね。勘治さんが恐れたように、雲助たちも恐れて逃げちゃうのかもしれないわ」

「へえ、すごいのねえ。普段のお師匠さんから、そんな事、ちっとも考えられないわ」

「ああ、疲れた」と言いながら噂の雪之助が顔を出した。

 おなつが言った通り、その優しい顔付きからは修羅場をくぐって来たような感じはまったくない。勘治が言った事さえ嘘のように思えた。

「お師匠、お師匠」とおなつが手招きする。

「お師匠、今晩はどちらに」とおなべが席を空ける。

「まあ、皆さん、お揃いで。お邪魔してもよろしいかしら」

 雪之助はおなつとおなべの間に納まり、市太を見てニッコリ笑う。

「橘屋さんの若旦那ですね。今まで、お宅にいたんですよ」

「なに、俺んちにか」

「ええ、おさやちゃんに誘われて。御隠居(ゴインキョ)さん、面白いお人ですねえ」

「うちの爺ちゃんはちっと変わってるからな」

「ええ、確かに変わってるわね。初めて、御隠居さんの離れにお邪魔した時なんか、あたしの顔をじっと見つめて、お妾(メカケ)にならないかなんて言ったのよ。しかも、おさやちゃんがいる前で。あたし面食らっちゃったわよ」

 市太が大笑いした。

「爺ちゃんの妾か。こいつアいいや」

「でも、最初にそんな事言われたから、何だか、あの御隠居さんには気を許せるの。やたらと親切面(ヅラ)をしながら、下心のある男たちばかりだからね」とチラッと勘治の顔を見る。

 勘治はいたたまれずにうなだれる。

「勘治さんの事を言ったんじゃないよ。あたしを呼びながら、あたしの芸なんて聞きもしないで、いやらしい目付きで、ジロジロ見ている旦那衆が多いって事さ」

「それは言えるわね」とおゆくもうなづく。「女が一人でいると余計なお節介を焼く奴がいるのよ」

「それにしても、橘屋さんの御隠居さんは面白い人よ。色んな事を知ってるし、浄瑠璃(ジョウルリ)本もいっぱい持ってるわ。噂では聞くけど、今ほとんど聞けない昔の本もいくつもあるのよ。ほんと、為になるわ。いいお爺さんを持ったわね」

「ああ。俺がこうやって遊んでられるのも爺ちゃんのお陰さ。若え時の遊びは決して無駄にはならねえってえのが爺ちゃんの持論だからな。男ってえのは肝心要(カンジンカナメ)さえしっかりしてりゃアいい。肝心要を鍛えるにゃア、若え時にたっぷりと遊んでみるこったって、いつも言ってるよ」

「市太んちは問屋だから、そんな事が言えるのよ。遊んでても食べて行けるもの」とおゆうが急に真面目な顔で言う。「あたしんちなんか、一家四人で一生懸命、働いたって貧しいもの」

「そういうおめえは遊んでるじゃねえか」

「まあね。でも、この間の大霜は痛かったみたいだよ。もしかしたら、あたしもそろそろ働かなきゃアならなくなるかもしれない」

「働くっておめえ、身を売るんじゃあるめえな」と勘治が心配する。

「そこまではしないさ。でも、お師匠じゃないけど、草津で働くかもしれない」

「草津だと?」

「うん。親戚の伯母さんが今、草津で飯炊きをしてるんだ。その伯母さんに仕事口を聞いてみるかって事になってね」

「なんだ、おめえ、草津に行っちまうのかよ。どうにかならねえのか」

「うちは男手が親父しかいないからね。畑がダメだと親父が馬方やっただけじゃ追いつかないのさ」

「畜生め。何も草津に行かなくったっていいだんべ。なあ、姉さん、ここで働けねえのか」

 勘治はおゆくを見るが、おゆくは首を振る。

「見りゃわかるでしょ。こんな狭い店、人なんて雇えないわよ」

「どこかねえのかよ。市太、何とかしてくれ。おゆうが草津に行っちまったら、俺アどうすりゃいいんでえ」

「何とかしろったってなア」

 みんな暗い顔付きになって考え込む。畑が全滅して生活が苦しくなったのは、おゆうの家だけではなかった。娘たちが義太夫に熱中して賑やかで平和な村に見えるが、狭い畑しか持たず細々と暮らしている家々は深刻な状態に陥(オチイ)っていた。

「いっその事、おめえがおゆうを嫁に貰っちまえばいいんじゃねえのか」

「そうか、そうすりゃアいいんだ。何も難しく考える事もねえや」と勘治は手を打つ。

「それもダメなの」とおゆうの声は暗い。

「親に話したら、家柄が違うからダメだって」

「何だと、家柄だと。何でえそりゃア」

「くそっ、また、家柄か。畜生め」市太は自棄気味に酒をあおる。

「おい、市太、家柄ってえのは何の事でえ」

 市太はおゆうの姉、おすわとの間にあった事を勘治に聞かせる。

「へえ、この村も色々と大変なんだねえ」と雪之助が溜め息を付く。

 暗い顔付きでしんみりしている所に錦渓(キンケイ)と安治が慌ただしく飛び込んで来た。

「何だ、みんないたのか」と安治が笑って手を上げる。

「おゆくさん、とうとうやったぞ。明礬(ミョウバン)石が見つかった」錦渓は嬉しそうな顔して、おゆくに言う。

「えっ、ほんとに」と錦渓を見るおゆくも嬉しそう。

「ほんとだとも。わしの目に狂いはなかったんじゃ」

「よかったわねえ。ほんと、よかったわ」おゆくは自分の事のように喜んでいる。

「一刻も早く、小松屋の旦那に知らせなけりゃならん。わしは明日、一旦、江戸に帰る事にした。しばしの別れを告げに来たんじゃよ」

「先生、江戸に帰るんですか」と勘治がすかさず聞く。

「ああ。旦那に現物を見せて、今後の事を相談せにゃアならんからな」

「江戸か。いいなア」

 勘治が江戸の話を聞こうと思ったら、「ねえ、詳しく聞かせてよ」とおゆくが錦渓を隅の方に引っ張って行ってしまった。

「おめえも明礬を捜してたのか」と市太が安治に聞く。

「先生から本の書き方を教わろうと思ってな。いつか、芝居の台本(デエホン)を書きてえんだ」

「おう、面白え奴を頼むぜ」

「本の書き方はまだだけど、本草学(ホンゾウガク)ってえのか、石とか薬草の事とかは教えてもらった。とにかく、色んな事を知ってんだよ」

「源内先生と一緒に長崎にも行ったらしいな。この間、俺も異国の言葉を教わったよ。もう忘れちまったけどな」

「そうなんだ、時々、阿蘭陀(オランダ)ってえ異国の言葉を使うんだよ。まったく、チンプンカンプンさ」

「なあ、市太、俺たちも江戸に行かねえか」と勘治が思い詰めたような顔して言い出した。

「急におめえ、なに言ってんだ」

「だってよう、おゆうと所帯(ショテエ)を持っちまったら、もう江戸なんかに行けなくなっちまうじゃねえか」

「あんた、なに言ってんのよ。あたしとあんたは一緒になれないのよ」

「うるせえ。家柄が何だってえんでえ。誰が何と言おうとな、俺アおめえと一緒になるって決めたんだ。親が反対(ハンテエ)しやがったら、俺アおめえと一緒に草津に行くからな」

「勘治‥‥‥」おゆうは嬉しくて涙を流す。

「あんた、なかなかいい男じゃないか。まあ、一杯おやりな」と雪之助が盃(サカズキ)を差し出す。

「すまねえ」と勘治は盃を受けた。

「あたしたちも味方だからね。諦めるんじゃないよ」とおなつとおなべが力づける。

 錦渓とおゆくは隅の方でいい感じにやっている。あんな風来坊なんかダメよと言いながらも結構、いい雰囲気だ。

「なあ、だからよう、市太、先生と一緒に江戸に行こうぜ」

「ああ、そりゃア行きてえけどな」

「俺も行きてえけど、俺ア無理だ」と安治は簡単に諦める。

「なあ、本場の芝居(シベエ)を見に行こうぜ」

「先立つ物(モン)がねえだんべ。江戸まで行くとなりゃア、半端(ハンパ)な銭じゃアしょうがねえ」

「そこなんだ。当然、俺も銭なんかねえ。そこで俺はアレをおめえの爺さんに質に出す」

「なに、アレをか」

「ねえ、何よ、アレって」とおなつが二人の顔を見比べる。

「湯飲みだよ」と市太が答える。「五、六年前、客が宿代の代わりに置いてったんだそうだ。大(テエ)した物じゃねえと、こいつが貰ってな、ガラクタ入れに使ってたんだ。去年の虫干しん時、勘治の親父がうちの爺ちゃんに値打ち物があるかどうか見てくれって言って来てな。俺も一緒に行ったんだ。大した物はなかったが、それでも、何とかってえ偉えお人の書が見つかってな。勘治の親父も喜んでたぜ。そん時、勘治もついでに、大笹の市で買った絵を見てくれって言ってな、部屋に連れてったんだ。その絵はくだらねえ絵だったが」

「くだらなかアねえよ。湖龍斎(コリュウサイ)の春画(シュンガ)だぜ」

「十二枚(メエ)の揃い物のうちの三枚だけじゃア、大した値打ちもねえそうだ」

「そのうち値が上がるさ」

「まあ、絵の事はどうでもいい。そん時、爺ちゃんが埃(ホコリ)だらけのその湯飲みを見つけてな。こいつア間違えなく値打ち物だって言ったんだ。詳しい事は知らねえが、何でも、すげえ湯飲みらしい」

「うめえ具合(グエエ)に桐の箱もちゃんと取ってあった。こいつアいい物だから、箱の中にいれて大事(デエジ)にしろって言われたんだ。そして、十両は下らねえって言ったんだ」

「十両‥‥‥」おなつがつぶやいて、皆、驚いた顔して勘治を見ている。

「すごいじゃない。ねえ、誰だったの、そんな高価な湯飲みを置いてったのは」

「五、六年も前の事だ。まったく、わからねえ。そんな高え物だったとは親にも内緒だけどな。爺さんはそん時、もし、手放す気があるなら、わしが買い取ろうとも言ったんだ」

「ああ、確かに言ったぜ」と市太もうなづく。

「手放す気はねえけど、とりあえずは質に出して路銀(ロギン)としようぜ」

「よし、それなら何とかなりそうだ。おっと、先生、明日のいつ、江戸に帰るんです」

 市太が錦渓に声を掛けると、錦渓はおゆくと何やら親密に話し込んでいる。

「何か言ったか」と錦渓が振り向く。

「先生、明日のいつ旅立つんです」

「朝一番に立つよ」

「俺たちも連れてって下せえ」

「そいつは構わねえが‥‥‥ああ、いいだろう。一緒に行こう」

「そうと決まりゃア、忙しい。勘治、さっそく、路銀作りと行こうぜ」

 市太と勘治は浮き浮きしながら店を出て行った。

「まったく、いい気なもんね」おなつたちは呆れ顔で二人を見送る。

「俺も行きてえなア」と安治が酒を飲む。

「一緒に行けばいいじゃない。お金はあるらしいしね」

「そうも行かねえよ。畑は台(デエ)なしになっちまったし、馬方(ウマカタ)稼ぎをしなくちゃアな」

「まったく、どういうんだろ。みんな、うちのために働いてるってえのに、のんきに江戸で芝居を見て来るってさ。畜生、あたしたちだって江戸見物したいわよ、ねえ」

「それよりさ、勘治の奴、そんな湯飲みを持ってんなら、おゆうを助けてやればいいのに、遊びに使っちゃうなんて、ああ、情けない」

 娘たちは二人の悪口を言いながら酒を飲み続け、離れた所では錦渓先生とおゆくが別れの盃を酌み交わしていた。
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