天明3年7月、浅間山が大噴火を起こし、鎌原村は火砕流にのまれて、500人近くの村人が亡くなりました
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28.七月八日.1
2007年12月11日(火) 12:11
28.七月八日








 真夜中の九つ(午前〇時)から八つ(午前二時)まで、土蔵が壊れるかと思う程の大揺れが続いた。皆、恐ろしさに震え、念仏を唱え続けながら恐怖と戦っていた。その後も小さな揺れを繰り返しながら、ようやく、長過ぎた夜が明けた。村人たちは二晩も続けて一睡もできず、精神的に限界を越え、クタクタに疲れ切っていた。

 揺れは続いているが青空が顔を出している。村人たちは生きていた事を喜び会いながら、恐る恐る蔵から外に出た。

 庭には大きな焼け石が砕けたカケラがゴロゴロしていた。表通りに出ると用水は砂と石ですっかり埋まり、あふれ出た水は泥水になって流れている。村人たちは飲み水がなくなったと騒ぎ始めた。樹木は倒れ、家々も傾き、倒れている家もあった。

 市太は松五郎を連れて、おろくの家を見に行った。ふと、浅間山を見ると、黒煙を吹き上げているのは変わらなかったが、山の頂上から黒い物が流れ出して、山裾まで伸びている。まるで、お山が舌を出して、アカンベエをしているようだ。

「おい、何でえ、ありゃア」

 倒れたおゆうの家をポカンと見ていた松五郎は顔を上げて、浅間山を見た。

「何だ、あれは‥‥‥」と言ったきり、声が出ない。

 昨夜、火の海だった六里ケ原から山裾に掛けては、まだ燃えているのか煙を上げている。お山から鎌原村までは四里も離れているので、ここまで山火事が来るとは思えないが、不安は増えるばかりだった。

 二人とも呆然(ボウゼン)と浅間山を見つめていた。村人たちも気づいて、皆、浅間山を見ながら、あれこれ騒ぎ始めた。

 気を取り直して、おろくの家まで行くと、やはり傾いていた。もう一度、大揺れが来れば完全に倒れてしまうだろう。

「馬がいねえ」と松五郎が家の中から叫んだ。

 土間の隅にある馬屋は馬に蹴られて傷だらけで、馬柵棒(マセンボウ)は外れていた。

「しょうがねえ。あんだけひでえ目に会えば、馬だって必死になって逃げるさ」

「しかし‥‥‥」

「いなくなった者(モン)をとやかく言っても始まらねえ。それより、今の内に家財道具を外に出しといた方がいい。親父とおろくを呼んで来てくれ」

 松五郎はうなづくと出て行った。市太は部屋に上がってみた。閉めきっておいた雨戸は皆外れて、外に落ちている。壁土は剥がれ、障子も外れて倒れている。甚太夫の三味線は無残な姿になっていた。見渡した所、荷物はそれ程ない。すぐに運び出せるだろう。

 甚左とおろくが来るとみんなで注意しながら家財道具を外に運び出した。

 若衆(ワケーシ)組を中心に男衆(オトコシ)総出で用水浚(サラ)いが始まった。皆、眠い目をこすり、最後の力を振り絞って働いた。市太も松五郎も勿論、加わっている。

「市太、もう終わったんだんべなア。お山の大騒ぎはよう」

 声を掛けられ、顔を上げると青白い顔をした惣八が鋤(スキ)を持って立っていた。

「おめえ、お山を見たかい」と市太は聞いた。「ありゃア焼け石の固まりだぜ。あれを吐き出しゃア、もう終わりだんべ」

「そうだんべ。俺もそう思うぜ。畜生め、とんだ目に会わせやがって」

「おめえんちは大丈夫(デエジョブ)だったんべえ」

「大丈夫なもんか。炭俵が崩れてメチャクチャだア」

「それでも、うちは無事なんだんべえ。おろくんちなんか、もうダメだ。あれじゃア、とても住めやしねえ。おゆうんちも潰れちまったし、おかよんちも危ねえ」

「ああ。幸助んちも、勘治んちも潰れちまったらしいな。これからが大変だア」

「そうさ。お上(カミ)に訴えて何とかして貰わなけりゃアどうしょうもねえ」

「そうだな。そういやア延命寺の和尚がお山に登って祈祷するらしいじゃねえか」

「ああ、村役人も何人か一緒に行って、お山の様子を調べて来るらしい。うちの親父も行くそうだ」

「おめえんちの親父もか。大丈夫なのか」

「なアに、あの和尚だって危ねえとこまでは行くめえ。観音堂の永泉坊にゃア負けられねえって、お山の側まで行くだけだんべ。行けるとこまで行きゃア御祈祷して帰って来るさ。揺れはまだ続いてるが、石は降って来なくなったからな、大丈夫だんべ」

「そうだな。このまま治まってくれりゃアいいが」

 用水の土砂浚いは半時(ハントキ、一時間)で片付いた。以前の様に山から引いた清水が流れ、人々は水を汲んで朝飯の用意を始めた。

 おろくも朝飯の支度を始めた。このうちは危ねえからやめろと市太が止めても大丈夫と言って聞かなかった。甚左は杖を突きながら家の回りを歩き回り、どうしたらいいんだとブツブツ愚痴(グチ)を言っている。松五郎はどこに行ったのかいなかった。

 市太は庭に出した家財道具に筵(ムシロ)を掛けて、その側で一服つけた。昨夜、おゆくの相手をしながら、つい飲み過ぎたようだ。いくら飲んでも酔わなかった。酒がなくなったので助かったが、あれ以上、飲んでいたら、おゆくのように酔い潰れてしまっただろう。こんな時に酔っ払って寝てはいられなかった。

 おろくがニコニコしながらやって来た。

「うめえ朝飯はもうできたのかい」

「もう少し待って」と言いながら、おろくは右手を広げて見せた。

 手の中には鈴が入っていた。

「おめえ、こいつは」と市太はおろくを見上げる。

「市太さんから貰った鈴です。もう少しで忘れるとこだった」

「そうか、こいつかア」

 市太は手に取って振ってみた。シャンシャンと綺麗な音がした。

「あたしのお守りなの。でも、これを身に付けると馬みたいで恥ずかしくて。それで、しまっておいたの」

「そういやア、馬がいなくなっちまったんだっけ。いいや、うちから持ってくらア」

「そんな。蔵ん中に入れてもらっただけで充分ですよ」

「俺の馬がいるんだ。とっつぁんだって、うちを直すにゃア稼がなくちゃアなるめえ」

「ありがとう」

 市太は鈴をおろくの前掛けの紐(ヒモ)に縛りつけた。

「やだア、もう」

「そうしときゃア、おめえがどこにいるか、すぐにわかる」

「あたしは馬じゃないんですよ、もう」

「馬じゃねえけど乗り心地はいいぜ」

「昼間っから何を言ってんです」

 その時、ドドーンと大音響が鳴り響いた。

「危ねえ」と市太がおろくを抱き寄せて、身を伏せると同時に大揺れが起こった。

 ミシミシミシッと家が唸り、やがて、ドサッ、ドドドーンと崩れ落ちた。土埃(ツチボコリ)が舞い上がり、何も見えなくなった。大揺れは一度だけだった。土埃が流れ去った後、市太は顔を上げた。

「おい、大丈夫か」

 おろくは目を開けるとうなづいた。

「あたしは大丈夫、市太さんは」

「大丈夫だ。うちん中にいたら危なかったぜ」

 市太は起き上がるとおろくを立たせ、「こいつのお陰だな」と腰の鈴を鳴らす。

「ほんと、助かったわ」

 家は見事に潰れていた。

「父ちゃんは大丈夫かしら」

 二人は甚左を捜した。甚左は裏の畑の中に倒れていた。杖は家の側に落ちている。杖も捨てて必死に逃げたらしい。おろくが声を掛けると甚左は起き上がった。

「とうとう、潰れちまったな。どうせ、あのままじゃア住んじゃアいられねえ。潰れてよかったんだ。畜生め」

「とっつぁん、足は大丈夫なのか」と市太は杖を渡しながら聞いた。

「すまんな」と言いながら顔を歪(ユガ)めた。「大丈夫だ」

「父ちゃん、ほんとに大丈夫なの」

「ああ、平気さ。ちょっと無理したが、大分(デエブ)、よくなってんだ」

「あっ、火が危なえ」と市太は竈(カマド)のあった辺りに飛んで行った。

 火は出ていなかった。一気に家が潰れたので、その勢いで火も消えてしまったらしい。市太は胸を撫で下ろして通りへと出た。見渡した所、火事は起きていないらしかった。

 松五郎が走って来た。潰れた家を見て、呆然と立ちすくんだ。

「おめえ、どこ行ってたんだ」

「えっ、ちょっと。みんな、無事なんですか」

「ああ、無事だ。心配(シンペエ)するな」

「よかった‥‥‥馬を捜しに行ったんだけど、どこにもいなくて‥‥‥おまちんちが潰れちゃったんで、家財道具を引っ張り出すのを手伝ってたんです」

「おまちってえのは、おゆうの妹のおまちか」

「ええ。お頭んちの隣です」

「そうか‥‥‥おめえ、おまちが好きなのか」

「いえ、そんな」

「いい娘だからな。まあ、うまくやれよ」

 松五郎は照れ臭そうに笑ってから、潰れた家の横を通って裏へと行った。

 浅間山を見ると黒煙と一緒に火の玉を吐き出している。不気味な黒い舌はさっきと変わらなかった。もういい加減にやめてくれよと市太が願っていると半兵衛が隣に来た。

「ひでえ目に会ったな」

「ああ。ひどすぎらア」と市太は砂だらけの顔を拭きながら、半兵衛の家を見た。傾いていて倒れるのは時間の問題と言えた。

「おろくたちは若旦那んとこにいたらしいな」

「うん。おかみさんの具合(グエエ)はどうだ」

「大丈夫じゃよ。馬がいなくなっちまったんは災難じゃったが」

「おろくんちも馬が逃げちまったんだ」

「そうか‥‥‥若旦那んとこは大丈夫なのか」

「叔父御が見回ってたからな。大丈夫だった」

「そいつはよかった。馬がいなけりゃ仕事にならねえからな」

「荷物も大分、溜まってるようだし、お山が静まったら大忙しだんべ」

「馬が減っちまったんじゃ余計に大変(テエヘン)じゃな」

「半兵衛さーん」と誰かが呼んでいた。

 振り返るとおかよの兄、長治が血相を変えて走って来た。

「半兵衛さん、大変なんだ」と息を切らせながら言う。「大笹から荷物がやって来て、旦那が半兵衛さんを呼んで来いって」

「何だと、この騒ぎん中、荷物が来ただと」

 市太は信じられないという顔付きで半兵衛と顔を見合わせた。

「そんなの蔵に入れときゃアいいじゃねえか」

「それが次から次へと来るんです。真田様の荷物で急ぐとか」

「運ぶつもりなのか」と半兵衛が聞く。

「ええ、今、馬方衆を集めてます。こんな時だから、旦那もいつもの倍の駄賃(ダチン)を出すとか」

「それにしたってよう、何だって、こんな時に荷物を運ばなけりゃならねえんだ」

「それが、大笹から来た馬方の話によると軽井沢から碓氷(ウスイ)峠に掛けて、お山の灰が五尺も積もって、まるっきり通れなくなっちまったらしい。それで、大笹の問屋にも荷物が山のように溜まっちまったようですよ」

「灰が五尺もか‥‥‥そいつアすげえな」

「とにかく、半兵衛さん、一緒に来て下せえ」

「よし、わかった。若旦那も行くだんべ」

「俺か。俺が行ってもしょうがねえさ。俺アおろくんちの片付けをしてるよ」

 半兵衛は長治と一緒に飛んで行った。問屋の方を見ると荷物を積んだ馬が次から次へと大笹通りから問屋へと向かっていた。

「五尺か‥‥‥」と市太は降り積もった灰の量を想像した。お浜たちは無事だんべえかと追分の女郎の事を心配しながら、おろくのいる方に戻った。

 皆、気が抜けたように、運び出した家財道具の側に座り込んでいた。

「とっつぁん、とにかく、こいつを片付けなくちゃアなるめえ」

「ふん、もうどうしょうもねえや」甚左は吐き捨てるように言う。

「どうしょうもねえったって、このままじゃア、新しいうちも建てられねえ」

「新しいうちだと。そんな銭なんかねえや」

「とっつぁんの気持ちはわかるが、うちをなくしたんはここんちだけじゃねえんだ。何軒もある。諦めちゃアならねえよ。少しづつでも片付けなくちゃアな」

「くそったれ」と甚左は悪態をついて、潰れた我が家をじっと見つめていた。

「その前(メエ)に腹減ったなア。悪(ワリ)いが松、うちから何か食い物を持って来てくんねえか。俺が今、顔を出すと帰れなくなる」

「うちで何かあったんですか」とおろくが心配する。

「大笹から荷物が来てな、これから運ぶんだとよ」

「まあ、この揺れの中を運んで来たの」

「らしいな。松代(マツシロ)の荷物だ。松代も江戸も、この村がこんな有り様になってんのを知らねんだんべ。まったく、のんきに荷物を送って来やがる。食い物を持って来たら、おめえ、俺の馬を使って馬方やってもいいぞ。何でも倍の駄賃をくれるそうだ」

「ほんとですか。俺、やります。銭を稼いで、うちを建てなくっちゃならねえ」

 松五郎は飛び出して行った。

「まだ揺れも治まってないのに、馬方なんかして大丈夫かしら」

「なに、六里ケ原を通って行くわけじゃねえ。狩宿(カリヤド)の方はここよりゃアましだんべ。石さえ降って来なけりゃ大丈夫さ」

 表通りをぼんやり眺めながら、市太たちが握り飯を食べていると延命寺の和尚が村役人を連れてやって来た。これからお山に登るらしい。市太の父親も一緒に行く予定だったが、問屋が忙しくて、誰かに代わってもらったようだ。父親が亡くなって山守を継いだ八蔵の案内で、名主の儀右衛門と組頭を務める枡屋の平太夫、同じく組頭の古久屋の伴右衛門がいた。和尚はきらびやかな袈裟(ケサ)を掛けて、真言(シンゴン)を唱えながら、ゆっくりと歩いている。三人の修業僧と米屋の下男が荷物を持って従っていた。その後ろに女衆(オンナシ)が両手を合わせながら付いて行く。女衆の中に三治の姿があった。フラフラと蔵から出て来たらしい。

 おろくは三治を捕まえて、家の方に連れて来た。三治は潰れた家を見て目を丸くした。

「お山の鬼がやって来て、おらんちを潰したんか」そう言うと市太の袖を引っ張った。「若ランナ、鬼退治らア。鬼退治らア」

 三治は市太を引っ張って、和尚の後を追って行こうとする。

「叔父さん、ダメよ」とおろくがたしなめても聞かない。

「いいさ、俺たちも見物しようぜ」

 市太とおろくは三治を連れて、女衆の後に従った。女衆は村外れの道祖神の所まで付いて行き、そこから、山に入って行く和尚たちの姿が見えなくなるまで見送った。

 女衆も引き上げたので、市太たちも家に帰った。もう家と呼べる物はなかったが。

「あたし、ちょっと、母ちゃんの様子を見て来る」おろくは三治の手を引いて市太の家の蔵に行こうとした。

「夜、眠れなかったから、どうせ、眠ってるだんべがな、心配なら見て来るがいい。三治は置いてっていいよ。俺が見てらア」

「それじゃア、頼むわ。すぐ、戻って来ます」

 市太がおろくを見送っている隙(スキ)にも、三治は勝手に裏の方に行った。市太は慌てて後を追う。家財道具の側に座り込んで、うなだれている甚左の側に行って、何やら言っている。甚左は相手にならず、うなだれたままだった。

「とっつぁん、元気出せよ」と市太は甚左を励ます。

「ああ」と甚左は気のない返事をする。

「それにしても、こいつを片付けるのは厄介(ヤッケエ)だな。松は馬方に行っちまったし、若衆(ワケーシ)もほとんど行っちまったんべ。帰(ケエ)って来てから、みんなでやるしかねえな」

「うちも潰れちまったし、馬もいねえ。畑は全滅、これから一体(イッテエ)、どうしたらいいんでえ」

「泣き言言うなんて、とっつぁんらしくねえじゃねえか」

「ふん、若旦那にゃア、わしらの気持ちはわかるめえ」

「ああ、わからねえさ。とっつぁんがそんな情けねえ事言ったら、みんなどうしたらいいかわからなくなっちまうだんべ。みんなで何とかしなきゃアならねんだ」

「うるせえ、そんな事アわかってる。もう、わしらの事ア放っといてくれ」

 三治は筵(ムシロ)を上げて、行李(コウリ)の中を引っ掻き回していたが、甚左の剣幕(ケンマク)に驚いて尻餅(シリモチ)をついた。市太は行李の蓋(フタ)をして、筵を掛けると三治の手を引いて、その場を離れた。

「ここにいてもしょうがねえ。やっぱり、蔵に戻るか」市太は独り言のように呟いた。

 昼四つ(午前十時)を知らせる鐘が鳴っている。もう大笹から来る荷物も終わったらしい。大笹道には観音堂へと向かう女衆の姿がチラホラ目に入るだけだった。市太は惣八の家の前で立ち止まって家の中を覗いた。家の者たちが片付けをしているのが見えたが、惣八の姿は見当たらなかった。また、おまんの家に行っているのだろう。自分の家の方を見ると、荷物を積んだ馬が次から次へと狩宿の方に向かっていた。おろくの姿は見えない。

 三治に引っ張られるまま、市太は観音堂へと向かった。砂に埋まった十日の窪を通って石段を登っている途中、ちょっとした揺れがあった。また、石が降って来るのかと思ったが降っては来なかった。三治が被ったままの頭巾を見て、おろくの家の庭に置いて来てしまった事が悔やまれた。

 観音堂には思っていた以上の村人が集まっていた。皆、一心に拝んでいる。お堂の中では疲れを知らない永泉坊の祈祷が続いていた。三治が後ろの方に座って拝み始めた。

 市太は三治の隣に立って、集まっている者たちを眺め回した。やはり女衆が多い。もっとも男衆は馬方が忙しい。手のあいているのは市太を除けば、年寄子供に怪我人ぐらいだ。

 お堂の中に市太の家族がいた。祖父に母親、叔母に兄嫁もいる。妹のおさやは隣のおみやと一緒で、おくらの方は半兵衛の娘おふじと一緒だ。熱心な信者である祖父に連れて来られたのだろう。山守の隠居も家族を連れて来ている。火事で家を失った治郎左と与七の家族も前の方にいる。あまり信心深いとは言えないおなつとおなべの姿もあった。

 三治に袖(ソデ)を引かれ、市太も座ると三治の真似をした。

「若旦那」と声を掛けられて振り返ると、おかよが姪(メイ)っ子をおぶって笑っている。

「三治と一緒になって拝んでるなんて、おかしくて見ちゃいられないわよ」

「なに、お守(モリ)をしてただけさ」と市太は照れ臭そうに立ち上がった。

「おめえこそ、何やってんだ。大笹から馬方連中がやって来たんべ。店を開けなくてもいいのか」

「それどころじゃないのさ。店ん中はもうメチャクチャ。傾いてるし、あれじゃアとても開けられないよ。おこうはいなくなっちゃうし、あたしが子守さ。ねえ、おこうを見なかった」

「さあな、知らねえよ」

「まったく、どこ行っちゃったんだろ。ねえ、おろくさんは」

「母ちゃんを見に行ったきりだ」

「大丈夫よ。甚太夫さんが付いてたもの」

「それでも心配(シンペエ)なんだんべえ。ところで、桔梗屋の姉さんはどうした。あの大揺れん中、大鼾(イビキ)をかいて寝ていやがったが」

「元気なもんよ。あ〜あ、久し振りによく寝たって、うちに帰ってったわ。でも、姉さんとこもメチャメチャで、お店は開けられないんじゃないかしら」

「まあ、元気になりゃいいや。あんな大酒のみの相手は真っ平御免だ」

「あっ、いた」とおかよは人込みの中を指さした。「一緒にいるのはおみやの弟の平次だわ。まったく、あの子も色気づいちゃって」

「おめえの真似をしてるんだんべ」と市太は笑う。

「なによ。あたしなんか、ちっとも男っ気なんてないじゃない」

「そろそろ、兄貴に会いたくてしょうがねえんだんべ」

「ああ、会いたいさ。思いっきり抱き締めてもらいたくてウズウズしてるんさ」

 そう言うとおかよは笑って、人込みをかき分けて妹の所に向かった。

 三治を連れて、そろそろ帰ろうとした時、石段の方から鈴の音が聞こえて来た。石段の方を見ているとやがて、おろくの顔が現れた。市太を見つけて、ニコリと笑った。

「よかった。やっぱりここだったのね。うちに帰ったら、いないんで心配しちゃった」

「三治に引かれて観音参りさ。うちの方は大変だったんべ」

「ええ。でも、次から次へと運んでるから、午前中には終わるんじゃないかしら」

「そうか。松も行ったのか」

「まだ、いたわ。半兵衛さんと荷物の整理をしてるの。いつまた、お山が焼けるかわからないんで貴重な物から先に運ぶんですって」

「ふーん。母ちゃんの方は大丈夫か」

「ええ、大丈夫よ。あたしも拝もう」

 おろくは三治の隣に座って両手を合わせた。市太は二人から離れ、浅間山を眺めた。

 何となく、浅間山がぼやけているように見えた。寝不足で目がかすんで来たかと目をこすった時だった。物凄い強風が浅間山の方から吹いて来た。とても立ってはいられない。市太は身を伏せ、這いながら、おろくたちの方に向かった。

 女衆がキャーキャー騒ぎ出した。ドサッと何かが倒れ、バリバリッと木の枝が折れる音がした。誰かが怒鳴っているが風の唸りで聞こえない。信じられないが、その強風は熱かった。熱風が浅間山から吹いていた。このままだと着物が燃えてしまうのではと思えるほど熱かったが、熱風はすぐに治まった。

「一体(イッテエ)、ありゃア何だったんだ」

 市太は顔を上げるとおろくと三治を見た。三治が市太の顔を見て、急に笑い出した。強風で元結(モットイ)が切れてザンバラ髪になっていた。おろくも笑って、自分の頭巾を脱いで市太に渡した。

「いいよ。おめえが被ってろ」

「だって、その頭じゃ恥ずかしいでしょ。石が降って来たら返してもらうわ」

「そうか」

 市太は頭巾を被って、ザンバラ髪を隠した。回りを見ると石燈籠(イシドウロウ)や石塔(セキトウ)が倒れ、折れた太い枝があちこちに落ちていた。幸い、怪我人はいないようだ。

 浅間山を眺めると今度ははっきりと見えた。黒煙を吹き上げ、馬鹿にしたように黒い舌を出している。しばらく、ざわついていたが、強風も治まり、何事もなさそうなので、女衆は安心して座り込んで、また拝み始めた。

 市太はもう行こうとおろくを促したが三治が言う事を聞かなかった。じっと拝んだまま、動こうとはしない。

「まあ、いいか。うちに帰ったって潰れちまったんじゃアしょうがねえ。ちょっと話があるんだ」

 市太はおろくを誰もいないお堂の裏の方に誘った。

「叔父さん、大丈夫かしら」

「みんながいるうちは、ああやって拝んでるだんべ。心配(シンペエ)ねえ」

 おろくはうなづいて市太の後を追った。観音堂の裏は深い森になっている。森の中に少し入って切り株に腰を下ろすと市太は手を差し出した。

 おろくは笑い、「なアに、話って」と市太の手を握る。

 市太はおろくの手を引っ張り、抱き寄せて、自分の膝の上に乗せた。

「ダメよ。誰かに見られたらどうするの」

「見られたっていいじゃねえか」と市太はおろくの口を吸う。

 しばらく抱き合っていたが、ガサガサという物音で、おろくは慌てて市太から離れた。

「鳥が飛んでっただけだ」

「だって、みんなが真剣に拝んでるのに」

「俺たちだって真剣さ。話ってえのは、うちの事だ。武蔵屋の前(メエ)に貸本屋を作るって言ったんべ。でもよう、どうせ建てんなら、武蔵屋の前だんべが、おめえんちの土地だんべが同じこった。あそこに貸本屋を建てりゃアいい。みんなが一緒に暮らせるようなうちをな」

「そうなれば嬉しいけど、そんなにうまく行くかしら」

「うまく行くようにするのさ」と市太はおろくの手を引く。おろくも素直に市太の側に寄り添う。

「でも、あたしたちの事だって、まだ、どうなるかわからないんでしょ」

「ああ、村役人も今はそれどころじゃねえからな。でもよう、おめえをお頭の養女にして嫁に貰うってえのは、何の問題(モンデエ)もねえはずだ。きっと、うまく行くさ」

「そうね」

「祭りが終わる頃にゃア、きっと、うまく行ってるよ」

「お祭りできるのかしら。うちをなくした人も多いし、怪我した人もかなりいるみたいだし」

「だからこそ、景気づけにやらなきゃアならねえんだよ」

「今晩はお稽古ができるといいのにね」

「もう大丈夫だんべ。さっき、熱風が吹いたんはお山の腹ん中が空っぽになったのかもしれねえ」

「そうか。そうよ、きっと。もう、あんな恐ろしい目に会わなくてもすむのね」

「もういらねえ。ぐっすり眠りてえよ」

 しかし、そううまい具合には行かなかった。ドガーンと耳をつんざく音が鳴り響き、また、お山が大爆発を起こした。市太はおろくを抱き寄せ、森から飛び出すと身を伏せた。大きな揺れも始まった。お堂がミシミシ唸っている。

「ここも危ねえ」

 二人はお堂の側から離れて、表の方へと向かった。女衆は恐怖に脅(オビ)え、顔を引きつらせて身を伏せている。やがて、砂や石が降って来た。市太は頭巾を脱ぐとおろくに被せた。キャーキャー騒ぎながら、女たちは若衆小屋を目がけて走り出した。市太とおろくも後を追う。若衆小屋は人であふれていた。

 石はすぐにやんだ。その代わりに今まで聞いた事もない音が響き渡った。

「ヒッシオヒッシオヒッシオ」と何かが押し寄せて来る音だった。

 何事だと人々は耳を澄ましながら小屋から出て、観音堂の側まで行って浅間山を眺めた。何と浅間山が見えなかった。そして、黒い大きな固まりが煙を上げながら、こちらに近づいて来る。

「お山が動いている」と誰かが叫んだ。

「大変(テエヘン)だ、大変だ、逃げろ、逃げろ」と皆、騒ぎ出した。

 騒ぎ出したが皆、どうしていいかわからず、オロオロしている。市太はおろくの手を握ったまま、じっと正体不明な物を見つめていた。

「一体、ありゃ何なんでえ。お山が動くわけがねえ。煙は出てるが火のようでもねえ」

「あっ、叔父さんがいない」おろくが叫んだ。

「なに」と市太は回りを見回す。

 青ざめた女たちの顔が目に入るが三治の姿は見当たらない。

「叔父さん」と叫びながら、おろくは若衆小屋の方に行った。市太も後を追った。

 小屋の中には誰もいなかった。小屋の回りや観音堂の裏も見たがいない。

「どこ行っちゃったんだろ」

「大丈夫さ。三治が一人でいるのを誰かが見つけて、うちまで届けてくれたんだんべ」

「それならいいんだけど‥‥‥」

「うちに帰ってみりゃわかるさ」

 市太とおろくが帰ろうとして石段の方へ向かうと黒煙が観音堂のすぐ側まで来ていた。

 ゴーゴーという唸り声とパチパチと何かが弾けるような異様な音が響き渡り、ドスーンと何かが当たったような音が響き渡った。大地が揺れ、観音堂は煙に包まれて、何も見えなくなった。揺れはしばらく続いた。

「一体(イッテエ)、どうなってんでえ。お山がここにぶち当たったのか、畜生め!」

「若旦那か」と煙の中から声がした。

「半兵衛か」と市太は聞く。

「そうじゃ。大丈夫か」

「ああ、大丈夫みてえだが」

 煙だと思ったのは土埃だった。やがて、消え、半兵衛の姿が見えた。

「若旦那、その面は何でえ。まるで、河童(カッパ)が娘っこを手籠(テゴ)めにしてるようだぜ」

「なに言ってやんでえ。それより、半兵衛はどうして、こんなとこにいるんだ」

「人手が足らなくてな、誰かいねえかと捜しに来たんじゃ」

「そうか。馬の方は足りたのか」

「ああ、大丈夫だ。逃げちまった馬は二十頭もいなかった。黒長のお嬢さんが心配して、馬を貸そうって言ってくれたんだが、何とか間に合いそうだ」

「なに、おみのも来てたのか。まだ、いるのか」

「いや、もうとっくに帰ったよ」

「ここにゃア女子供と年寄しかいねえ。役には立つめえよ」

「そうか。とにかく、若旦那も手伝ってくれ」

「ああ、今、三治を捜してんだ。見つかったら俺も行く」

「大変だ、大変だ、みんな、来てくれ」

 誰かが石段の所で怒鳴っていた。若衆頭の杢兵衛だった。

 おろくを立たせ、市太が半兵衛と一緒に杢兵衛の所に行くと杢兵衛は何も言わず、石段の下を指さした。

 見るとそこには信じられないものがあった。石段が十五段しかなかった。そこから先は土砂で埋まっている。辺り一面、土砂が広がっていて鎌原村は消えていた。土砂は乾いていて、所々に大きな石や黒い焼け石、樹木の枝や太い幹(ミキ)が混ざり、ゴロゴロと転がっているのもあった。

「まさか」と市太もおろくも半兵衛も自分の目を疑った。

 こんな事が起こるはずはない。絶対に信じられない。ここまで土砂が来ているという事は、村はすべて埋まってしまったという事だった。観音堂にいた者たちも集まって来て、石段を覗き込んだ。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」と誰かか騒いで、ワァッと泣き始めた。

 百姓代の仲右衛門が人込みを押し分けて顔を出し、「何だ、こりゃア」と叫ぶと石段を下りて行った。十五段の所で立ち止まって遠くを見回し、「おーい、みんな、大丈夫か」と叫ぶと、よろけるようにしゃがみ込んだ。

 それを見ていた杢兵衛は腰が抜けたようにヘナヘナと崩れた。おろくも急に気が遠くなったように市太の腕の中に倒れ込んだ。

「おまえさん、無事だったのね」と杢兵衛の妻、おすみが飛んで来て、杢兵衛にすがりついた。

「おめえ、無事だったんか。よかった、よかった」

 二人は泣きながら抱き合っていたが、皆の視線を感じて離れた。おすみと一緒にいた、おまんとおしめ、おゆうの妹のおまちが力が抜けたように立ちすくんでいた。

「父ちゃん」と今度は半兵衛の娘おふじが父親に抱き着いて来て泣いた。

 身内が側にいる者たちは皆、抱き合って泣き、身内がいない者は一人、泣き崩れた。

 市太は泣いているおろくを抱きながら、生き残った者たちを呆然と眺めていた。姪っ子をおぶったおかよが妹のおこうの手を引いて、気が抜けたような顔して二人を見ていた。

 それだけでは終わらなかった。再び、ヒッシオヒッシオ、ワチワチという音が響き渡り、真っ黒な煙が浅間山から観音堂へと近づいて来た。生き残った者たちは喚きながら、お堂の上へと上って行く。永泉坊は無心になって祈祷を続けていたが、そんな事も構わず、生き残った者たちは必死になって、より高い所へとお堂を目指した。

 観音堂へ逃げる女たちを眺めながら、「どうする、若旦那」と半兵衛が聞いた。

「今更、どこに行ったって同じだんべ。さっき、村が埋まっちまったんだ。今度はここも埋まっちまわア」

「かと言って、ここにいる事もねえだんべ」

「観音堂は一杯(イッペエ)だ。裏の小屋でも行くか」

 半兵衛は娘のおふじとおまちを連れ、杢兵衛は妻のおすみとおまん、おしめを連れ、市太はおろくとおかよたちを連れて若衆小屋に逃げ込んだ。小屋の中には誰もいなかった。火事で焼け出された二家族が仮住まいしていたので、その家族が運び込んだ荷物があるだけだった。

「お頭、おめえさん、何で、ここにいるんじゃ」と半兵衛が杢兵衛に聞いていた。

「俺は村を見回ってたんだ。また大揺れが来て石が飛んで来やがったんで、危ねえから、みんな、うちに帰れって言いに来たんだ。そしたら、あのざまだ。畜生、何で、あんな土砂がお山から押し寄せて来るんでえ」

 不気味か音が唸りを上げて近づいて来る。市太、半兵衛、杢兵衛は女たちを庇うように身を伏せた。

 ドドドーンと音がした。さっき程、揺れはひどくなかった。しばらく、耳を澄ましていたが何も聞こえない。土埃が静まるのを待って、意を決して外に出た。

 観音堂は無事だった。石段の所まで行くと、土砂の上は黒い焼け石で埋まっていた。まだ燃えているのか石の透き間から火が覗いている。石段の数を数えると、さっきは十五段あったのに十三段しかなかった。浅間山を見ると、今度こそ、腹の中の物をすっかり吐き出してしまったのか、黒煙は半分に減っていた。
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