天明3年7月、浅間山が大噴火を起こし、鎌原村は火砕流にのまれて、500人近くの村人が亡くなりました
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18.六月二十三日
2007年11月19日(月) 12:01
18.六月二十三日




 舞台では三幕目の『渡海屋(トカイヤ)』の稽古をやっている。いよいよ、本番まで、あと一月、何とか、皆、様になって来た。

 市太とおろくは仲よく見物。今晩は市太の出番はない。

「そろそろ行くか」と市太はおろくの手を引いて、おかよの店、巴屋に向かった。

「今日はほんとにすみませんでした」とおろくは謝った。

「なに、気にするねえ。どうせ、昼間はやる事がねえんだ」

「父ちゃんも助かったって言ってます」

「おめえを連れ出すにゃア、とっつぁんの機嫌を取らなけりゃならねえからな。お陰で昨夜(ユンベ)も一緒にいられた」

「はい」とおろくは少し赤くなる。

 一昨日(オトトイ)の晩、念願かなって、おろくを抱いた市太は次の日の昼、どうしても、おろくに会いたくなって、おろくの家に行った。家には誰もいなかった。寝たきりの母親はいたのかもしれないが返事はない。隣の武蔵屋の女将に聞くと、畑じゃないかという。畑の場所を聞いて行ってみると、おろくは弟の松五郎、叔父の三治も一緒になって、畑の中の小石をどけていた。杖(ツエ)をついた父親も危ない足取りで小石を片付けている。市太の家では市太が大笹の市祭りに行った日に、手の空いている男衆(オトコシ)に手間賃を払って片付けたらしい。唯一の働き手である松五郎が手間賃稼ぎに他人の田畑の小石を片付けていて、自分の家の畑は後回しになってしまった。市太は見るに見かねて手伝った。

 昨日、今日と仕事に精出し、何とか、小石も片付けた。おろくの父親も感謝して、昨夜は芝居の稽古がないのに、市太と出掛けるのを許してくれた。市太はおろくを自分の部屋に連れて行き、江戸芝居の役者番付や役者絵を見せて、有名な役者の話を聞かせ、ついでに土蔵に連れ込んで、しっぽり濡れた。

 巴屋には鉄蔵、幸助とおきよが来ていた。

 幸助はおきよを美人絵に描いて贈り、やっと、自分の気持ちを伝える事に成功した。おきよの方もまんざらでもないらしい。

「あら、お揃いで。いらっしゃい」とおかよが笑顔で迎える。

「おめえ、大丈夫(デエジョブ)か」と市太はおかよを心配する。

「大丈夫さ。こうなる事は最初からわかってたのよ。平気、平気」と強がりながら、おかよはお勝手の方に引っ込んだ。

「あたしも手伝った方がいいわね」とおろくもお勝手の方に行く。

 市太はうなづいて、座敷に上がり込む。

 鉄蔵は煙草をふかし、幸助は鉄蔵の手帳を眺めながら一人で唸っている。朝から晩まで絵を描いているので何冊めの手帳かわからない。風景、人物、虫や花、目につく物は何でも描いていた。

 市太の祖父、市左衛門のために茶の湯の掛け物を描き、市左衛門が茶の湯仲間に見せびらかすと、わしにも描いてくれと引っ張り凧になった。鉄蔵は喜んでサラサラと絵を描いた。大笹の黒長に頼まれて襖絵(フスマエ)を描いた事が知れると村の者たちも欲しがり、あっちこっちに出向いては襖絵を描いていた。その合間には娘たちの姿も描いている。鉄蔵の絵に対する執念はまったく驚くべきものだった。

「兄貴、扇屋の仕事は終わったのかい」市太は鉄蔵の隣に座り込んで聞く。

「ああ、やっと終わったぜ」

「兄貴も忙しかったなア」

「お陰で、懐(フトコロ)は大分(デエブ)、暖(アッタ)かくなった。江戸に帰(ケエ)っても当分は遊べるってえもんだ」

「また、吉原に入り浸りですかい」

「いや、今度は深川さ」

「深川か。あそこにゃア粋(イキ)な芸者衆がいるんだんべ。いいなア」

「江戸に来たら連れてってやるよ」と鉄蔵は笑う。「深川は吉原ほど金がかからねえからな」

「そいつアありがてえ」

「おろくとうまく行ってるようだが、おめえ、別れられるのか」

「そいつなんだ。今はちょっと別れられねえ。あと一月でどうなるか。芝居(シベエ)が終わってから考(カンゲ)えるさ。兄貴の方はどうなんでえ。おかよと簡単に別れられるのかい」

「つれえが、今の俺はまだ半人前(メエ)だからな、一人前にならなけりゃア話にならねえ。会いたくなったら、また来るさ。まあ、おかよの方もそういつまでも待っちゃアいられねえだろうがな」

「兄貴の腕は確かなんだ。有名になる事ア間違えねえや」

「いや、まだまださ。上には上がいるもんだ。ここに来て、何とか、俺の絵ってえもんがつかみかけて来た。江戸に帰って、またやり直しだ」

「早く有名になって下せえよ。村の者たちもみんな応援してるんだ」

「ああ、見ていてくれ」

 桔梗屋のおゆくがとっくりを抱えてやって来た。

「なんだ。まだ、みんな揃ってないのかい」

「やあ、姉さん、わざわざ、店を閉めてまで来てくれて悪(ワリ)いなア」

「なあに、たまにはお客になって、とことん飲むのさ」

「おい、姉さん、また、酔い潰れるまでやるつもりかよう」と市太が顔をしかめる。

「この間の冷や酒はきいたねえ。でも、うまかったろ。ちゃんと持って来たからね、みんなで飲もうや」

 芝居の稽古も終わり、勘治、安治、仙之助、おさやとおみやもやって来て、鉄蔵の送別会が始まった。普通だったら、当然、この場にいるはずの惣八、おなつ、おなべの顔はない。惣八は未だに土蔵から出してもらえないし、おなつとおなべは、それぞれ、市太、惣八との仲が気まづくなり、芝居の稽古で顔を合わせても口もきかなかった。

 おろくは市太の隣に当然のように座って、ちょっぴり酒を飲みながら、みんなの話を聞いていた。

「おまんだけど、どうやら、八兵衛とよりを戻したらしいぜ」と安治が言うと、待ってましたとおゆくが話に乗ってくる。

「おすみから聞いたんだけどね。一時は離縁するって話まで行ったらしいよ。おまんは子供ができないだろ。跡継ぎを産まない女なんか、いらないって言ったらしいのよ。おすみも子供ができないからね、くやしいって、あたしに愚痴(グチ)を言いに来たのさ」

 おすみはお頭、杢兵衛のおかみさんで、おゆくとは同い年、愚痴を言い合う仲だった。

「それで、どうなったんだ」と市太が聞く。

「お頭が何とか説得したみたい。結局、おまんと惣八は何もなかったみたいね」

「でも、あん時、おまんは帯を解いてたんだんべ」と幸助も興味深そうに話に加わる。

「それがさ、その帯は芝居で使う帯だって言うんだよ。おまんは路考の衣装を担当してたからね、筋はちゃんと通ってるのさ」

「それにしたって、路考は帯を解いたおまんの姿を見てるんだんべ」

「部屋ん中は暗かったからね、はっきりとは見てないらしいのよ。散らかってる帯を見て、暗闇ん中に惣八とおまんが二人っきりでいたんで、路考は大騒ぎしたんだよ」

「それじゃア、蔵ん中に閉じ込められた惣八は馬鹿みたってえ事か」

「世間体が悪いからしょうがないさ。他人(ヒト)様のおかみさんに手を出そうとしたのは確かなんだからね。二人が元の鞘(サヤ)に納まりゃ、そのうち、出られるだろ」

「俺は最初(ハナ)っから、おかしいと思ってたぜ」と市太は言う。「その日、惣八は稽古に出てたんだ。出番が終わって、すぐにおまんのとこに行ったって、あの大揺れが来るまで四半時(シハントキ、三十分)ぐれえしかなかった。四半時で口説き落とせるはずがねえ」

「そうだよな。奴にそんな腕はねえぜ」と安治もうなづく。

「でもね」とおゆくが身を乗り出す。「八兵衛とおまんの仲もしっくり行ってなかったのは確かなんだよ。八兵衛は最近、やたらと追分の女郎屋に通ってて、淋しい思いをしてたらしい。そんな時、惣八が毎日のように出入りしてりゃア、なるようになっちまうさ。もし、あん時、お山が焼けなかったら、間違いなく間男してたろうねえ」

「姉さんも今、先生がいなくなって、おまんと同じ心境かい」

「ああ、そうさ。淋しくって夜も眠れないのさ。おかよちゃん、あんたも鉄つぁんがいなくなれば同じだよ。覚悟しときな」

「おい」と鉄蔵がおかよを見る。「俺がいなくなったら、淋しくなって、すぐに他の男とできちまうのか」

「なに言ってんのよ。そんな事あるわけないじゃない。一年でも二年でも、あたしはあんたを待ってるさ」

「嬉しいねえ。さすが、俺が惚れた女だ」

「おろくちゃん。あんたもだよ」

 おゆくが突然、おろくの名を呼んだので、みんなの視線がおろくに集まる。

「えっ」とおろくは皆の顔を見回す。

「若旦那も芝居が終わりゃア江戸に行くんだろ。淋しくって、毎日、泣いてなくちゃアならないよ」

「そんな‥‥‥」

「ほんとさ。江戸に行きゃア、いい女は一杯いるからねえ。まったく、気が気じゃないよ」

「姉さん、そんな事、言わないで下さいな。あたしも心配になってきた」おかよが鉄蔵の顔を見つめる。

「そうだ。男たちが帰って来なかったら、あたしたち三人で江戸に行こうか」

「そうね、そうしましょ」とおかよはおゆくに賛成。

「おろくちゃん、あんたも行くのよ」

「でも‥‥‥」

「でもじゃないの。あんたはもう充分にうちのために働いて来たのよ。そろそろ、自分の事を考えなさい。姉さんだっているんだし、兄さんがしっかりしたお嫁さんを貰えばいいのよ。ねえ、若旦那、おろくちゃんのために、兄さんにお嫁さんの世話してやってよ。世話好きな、いい人をね」

「そうか。その手があったな」市太は、そいつはいい考えだとおろくを見てうなづく。

 おろくも軽くうなづくが、難しいわよという顔付き。

「それにしても、あんた、随分、変わったわね」おゆくがおろくに言う。「今まで、あんたの笑い顔なんて見た事なかったけど、若旦那と仲良くなってから、すっかりいい女になっちゃって」

「ほんとよ。お芝居の事も詳しいんで、あたし、びっくりしちゃった」おかよが言うと、市太の妹のおさやもうなづいて、

「兄さんがお芝居のお稽古におろくさんを連れて来た時、あたし、誰だかわからなかった。何となく、おどおどしていて、兄さん、何で、こんな人を連れて来たんだろうって思ったの。でも、だんだんと打ち解けて来て、だんだんと綺麗になって行くんだもの。あたし、びっくりしちゃった」

「自惚(ウヌボレ)鏡のお陰だな」と鉄蔵が笑う。

「なアに、自惚鏡って」

「江戸土産さ」

「へえ、若旦那、おろくちゃんに自惚鏡をやったんだ。あたしも先生から貰ったわよ。あれはほんと、よく写るわ」

「俺もおゆうにやったんだが、えれえ喜ばれたよ」と勘治も言う。「草津は普通の鏡は使えねえそうだ」

「ねえ、兄さん、自惚鏡って何なの」おさやは市太に聞く。

「先生のお師匠が作ったビイドロの鏡さ。銅の鏡なんかより、ずっと綺麗に写るんだ」

「ずるい。兄さん、おろくさんにそんなの買って来て、あたしには簪(カンザシ)だけなの」

「いいじゃねえか。そのうち、安に買ってもらえ」

「あたしも綺麗になるんなら、そんな鏡が欲しい。ねえ、安治さん、江戸まで行って買って来て」

「おさやちゃん、急に何を言ってんだよ」

「仙さん、あたしにもね」とおみやも言う。

「俺が江戸に帰ったら、みんなに送ってやろう」と鉄蔵が言うと娘たちは大喜び。

「でもな、その鏡のお陰で、おろくが綺麗になったわけじゃアねえ」と鉄蔵は言う。「ただ、自分に自信を持ったから綺麗になったんだよ」

「自信だなんて、そんなの持ってませんよ」おろくは恥ずかしそうに手を振る。

「自信というか、今までは自分の事なんか誰も見向きもしねえと思ってた。ところが、市太が自分を好きになってくれた。市太のためにも綺麗にならなくちゃアならねえって気持ちが、おろくを輝かせたんだ。女ってえなア、いつでも誰かに見られてると思うと綺麗になるもんだ。おかよや姉さんのようにな」

「うまい事、言うじゃない。これで、お酒が飲めれば文句ないんだけどね」とおゆくがおかよを見て笑う。

「いいんですよ。お酒なんか飲めなくたって」

「おやおや、御馳走様」

 四つの鐘(午後十時)が鳴ると、おろくは帰ると言い出した。あまり遅くなると明日の晩、出られなくなるので、市太も諦めて送って行った。安治はおさや、仙之助はおみや、幸助はおきよを送り、戻って来ると再び、宴が始まった。
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