天明3年7月、浅間山が大噴火を起こし、鎌原村は火砕流にのまれて、500人近くの村人が亡くなりました
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12.六月八日
2007年11月07日(水) 12:10
12.六月八日




 江戸から帰って来た錦渓(キンケイ)は明礬(ミョウバン)捜しに忙しかった。朝から晩まで『江戸屋』の伜、伊勢松を連れて山の中を歩き回っている。明礬石が発見された事によって、江戸の小松屋と掛け合い、資金の調達はうまく行ったが、思ったように見つからない。師匠の源内が作ったという奇妙な測量器を持って、毎日、泥だらけになっている。戯作者(ゲサクシャ)志願の安治も馬方の仕事がない時は手伝いながら、錦渓から戯作の書き方を教わっていた。

 鉄蔵は大笹の黒長(クロチョウ)に気に入られて、襖絵(フスマエ)を描いてくれと頼まれた。鉄蔵は喜んで引き受け、そのまま、黒長の家に滞在している。惣八はおまんをものにするために小道具集めに精を出している。

 市太は今度の芝居を見事にやり終えたら、江戸に行こうと決めていた。この前、おなつと話したが、江戸に行って暮らすには何かをしなければならない。何をやったらいいか、真剣に悩んでいた。子供の頃から色々な事に興味を持って祖父に教わったが、どれも中途半端。博奕(バクチ)の腕には自信があるが、まさか、江戸で一端(イッパシ)の博奕打ちになる程の度胸はない。一体、何をやったらいいのか‥‥

 今晩は芝居の稽古もないので、市太は錦渓に相談しようと日暮れを待って桔梗屋に顔を出してみた。うまい具合に錦渓は酒を飲んでいた。他に客はなく、おゆくが隣に座って相手をしている。数日前、喧嘩したようだったが、よりを戻したらしい。

「あら、いらっしゃい。珍しく、一人なのね」

「何やら、みんな、忙しいらしくてな」と市太は軽く笑って、二人の側に行く。

「そういえば、お芝居の前座に娘義太夫をやる事に決まったらしいわね」

「娘たちも裏方だけじゃなくって、舞台に出てえらしい。雪之助に習った腕をみんなに披露しようって事になって、おなつの奴も負けん気が強えから、あたしがやるって稽古に励んでやがる」

「おなっちゃんも大分、腕を上げたようだね。でも、おきよちゃんもうまいからねえ」

「ああ、その二人のどっちかだんべ。おなべも負けられねえって頑張ってるようだ」

「おゆうちゃんもうまかったのに残念ね」

「そうだな。姉さんは出ねえのかい」

「あたしゃ娘って柄じゃないだろ。みんなが頑張ってるのに出しゃばる気はないよ」

 おゆくが酒の用意にお勝手に引っ込んだ後、市太は錦渓の向かい側に腰を下ろす。

「先生、今日は先生にちょっと相談があるんだ」

「何だ、わしに相談?」

 錦渓は伸びた無精髭を撫でながら、市太の顔を見る。

「俺、江戸に出ようと思ってんだけど、何かうめえ稼ぎ口はねえかな」

「ほう。とうとう出る事に決めたのか」

「芝居(シベエ)が終わったらだけど」

「そうか。江戸ってえとこはな、銭がありゃア面白えが、銭がねえと大変なとこだぜ」

「わかってるさ。だから、稼ぎ口を考えてんだ」

「稼ぎ口といってもなア。年期奉公ならあるだろうが、おめえの年で商家の小僧になるわけにも行くめえ」

「丁稚(デッチ)小僧なんかになるか。そんなんじゃなくて、何かうめえ仕事はねえですか」

「まさか、江戸で問屋をやるわけにも行かねえしな。馬方稼業なら内藤新宿にでも行きゃア稼ぎ口があるかもしれねえな」

「江戸に行って馬方か。あまり冴えねえな」

「舟でも操れりゃア猪牙(チョキ)に乗って稼げるがな」

「猪牙か。ありゃア、なかなか粋(イキ)だ」

「粋だが、そう簡単に操れるもんじゃねえよ」

「そうだんべなア」

 おゆくが酒を持って戻って来て、錦渓の隣に座ると市太に酌(シャク)をする。

「ねえ、先生、吉原で何か仕事ねえですか。たとえば先生んちで」

 市太は大黒屋の花魁(オイラン)たちを思い出して、あんな所で仕事ができたら楽しいだろうと錦渓の返事に期待する。

「ねえ事もねえが、吉原で働いてる奴らは皆、一癖も二癖もある奴らばかりだからな、あんな世界にゃア入らねえ方がいいよ」

「へえ、そうなんですか」

「吉原ってえとこは表向きはきらびやかだが、裏に回りゃア恐ろしいとこだ。下手をすりゃア命に関わる事になりかねん」

「そんなおっかねえとこなんですか」

「女を売り買いしてるとこだからな、それなりに裏があるんだよ。人情に負けたら命がいくつあっても足らねえ」

「ねえ、それどういう意味なの」とおゆくが口を挟む。

「あそこで働いてみりゃアわかるが、客として遊びに来た時とは違って、遊女たちの裏が見えてくる。綺麗に着飾っちゃアいるが、根は不幸な女たちだ。男なら何とかしてやろうと思うのが男気(オトコギ)ってえもんだ。だが、あそこでそんなもんを出そうもんなら、命がいくつあっても足らねえって言うんだよ。女たちを商品だと割り切らなけりゃア生きちゃアいけねえ。わしはそんな世界に嫌気がさして、あそこから飛び出したんだよ」

「そうだったの‥‥‥」

「あそこは遊びに行くとこだ。働くとこじゃねえよ」

「吉原はダメか‥‥‥何か、いい仕事はねえかな」

「難しいな。渡り職人のように手に職でも持ってりゃア何とかなるだろうがな」

 おゆくもあれこれと真剣になって考えてくれたが、結局、いい考えは浮かばなかった。

 三人で顔付きあわせて酒を飲んでいると、おゆくの甥(オイ)の次郎が帰って来た。

「あら、随分と遅かったじゃない」

「うん。遅くなって仕事が入って、松と一緒に行って来たんだ」

「仕事って、狩宿まで行って来たの」

「そうさ。松も一緒なんだけど、飯食わしてくれるかい」

「ああ、いいともさ」

 次郎が松五郎を連れて入って来た。松五郎は市太の顔を見ると軽く頭を下げて、隅の縁台に腰を下ろした。

「親父の具合(グエエ)はよくなったか」と市太は声を掛けた。

「はい。お陰様で‥‥‥」

「姉ちゃんは元気かい」

「はい‥‥‥でも」

「でも、何でえ」

「いえ、あの、ちょっと、いいですか。ちょっと話があるんですけど」

「何でえ、改まって。仕事の話じゃア俺に言っても始まらねえよ」

「そうじゃねえんです。ちょっと」

 市太は松五郎に誘われるままに茶屋を出た。上弦(ジョウゲン)の月が照らす中、通りの中央を流れる用水の所に馬が二疋、うまそうに水を飲んでいる。用水の側まで行くと松五郎は振り返って、「あのう、姉ちゃんの事なんですけど」と口ごもった。

「姉ちゃんがどうした」

「最近、姉ちゃん、ため息ばかりついてて、つまらねえ事で俺に当たるんです」

「疲れたんじゃねえのかい」

「いえ、若旦那が毎日のように来てた時は、姉ちゃん、浮き浮きしてました」

「へえ、そうかい」

「若旦那、姉ちゃんに鈴をやったって本当なんですか」

「鈴?」

「はい。馬に付ける鈴です」

「馬の鈴をか‥‥‥簪(カンザシ)ならこの前、やったが」

「簪? それは知らねえけど、姉ちゃん、鈴を大事(デエジ)に持ってんです。ずっと前(メエ)に、若旦那から貰ったんだって、この前、言ってました」

 市太には覚えがなかった。

「ずっと前って、いつの事でえ」

「さあ。でも、姉ちゃんがあの鈴を大事に持ってんのは、かなり前からです。俺が馬方をやる時、その鈴をくれって言ったら、これは一番大事な物だからダメだって言いました。そん時は若旦那から貰ったなんて言わなかったけど、若旦那が見舞いに来るようになってから教えてくれたんです」

「そうか‥‥‥」

 市太がおろくに鈴をやったとすれば、それは、おろくが兄の甚太夫を連れて市太の家に通っていた時しか考えられない。その時、何げなくやった鈴を、今まで大事に持っているなんて、市太には信じられなかった。

「本当に、あの鈴は若旦那がやった物なんですか」

「ああ。もう十年も前の事だ」

「そうだったんですか。俺、信じられなくて。それだけ聞きたかったんです。すいません」

 松五郎は桔梗屋に戻って行った。市太は通りの向こう側に広がる諏訪の森をじっと見つめていたが、月を見上げると、おろくの家へと足を向けた。

 おろくは驚いた顔をして、市太を迎えた。

「とっつぁんの具合はどうだい」

 市太が聞くと、おろくは目を伏せて、「もう大丈夫です。御心配かけてすみません」と小声で言った。

「そうか、そいつアよかった‥‥‥ちょっと、出られねえか」

「えっ」

「ほんのちょっとだ」

「でも‥‥‥あの、あたし、若旦那に見せたい物があるんですけど」

「何でえ、見せてえ物って」

「どうぞ、お入り下さい」

 囲炉裏の間には誰もいなかった。縁側の方から甚太夫が弾く三味線が聞こえて来る。父親と母親は奥の間に寝ている。叔父の三治ももう寝たようだ。

 おろくに案内されて部屋に上がると、おろくは片隅に置いてあった風呂敷包みを広げた。

「ようやくできました」と言って、市太の前に差し出したのは弁慶格子(ベンケイゴウシ)の単衣(ヒトエ)だった。

「こいつア、もしかしたら‥‥‥」市太は単衣から顔を上げておろくを見る。

「いがみの権太の衣装です」とおろくは市太を見つめて言う。

「おめえが縫ったのか」

「はい。おすみさんに頼まれて」

 おすみというのは若衆頭、杢兵衛のおかみさんで、衣装担当の責任者だった。

「そうだったのかい。おめえが権太の衣装を縫ってくれたのか。そいつア知らなかった」

「これを着て、立派なお芝居を見せて下さい」

 市太がうなづき、「ありがとうよ」とお礼を言うと、おろくは嬉しそうに笑った。

 市太も喜びながら、おろくの笑顔を久し振りに見たような気がしていた。市太はさっそく、単衣に袖を通した。

「こいつアいいや。衣装を付けるとすっかり権太に成り切るぜ」

 市太は上機嫌でおろくに権太の台詞を聞かせた。甚太夫が聞いていたのか、その場面に合わせて三味線を弾いて、チョボを語ってくれた。父親の甚左が杖を突きながら奥の間から出て来て、「よう、若旦那!」と声を掛けた。

「とっつぁん、照れ臭えからよしてくれ」

「なアに、うめえもんだ」

「初代(ショデエ)の権太から、そう言われるたア嬉しいねえ」

「わしも昔を思い出したぜ」

 二十七年前、手の付けられないゴロツキだった甚左はいがみの権太を演じて、村人の喝采(カッサイ)を浴びて改心した。市太がまだ生まれる前の事である。その後、十四年前にも、ゴロツキだった孫右衛門が権太を演じて改心している。市太は三代目の権太だった。

 甚左はおろくに言って、隣の『武蔵屋』から酒を買わせると市太を相手に権太談義を始めた。おろくは嬉しそうに二人に酌をする。

 やがて、松五郎が馬を引いて帰って来た。市太がいるのを見て、姉の笑顔を見て、満足そうに一人うなづくと囲炉裏端に座り込んだ。浮き浮きしている姉を見るのは久し振りだったし、父親が得意になって芝居の話をするのは、もっともっと久し振りだった。
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